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倉敷開業物語

沢山俊民

「倉敷開業物語第1回」―さわやまクリニック院長 沢山俊民―川崎医科大学名誉教授

初めまして。私は過去30年にわたり岡山県倉敷市にある川崎医科大学で教授(内科循環器部門)職にあり、平成11年3月31日定年退職した直後(同5月6日)新規に循環器科を開業しました。 日本医学出版の渡部社長とは長年の知己であることからここに登場し、自己紹介を兼ねて「なぜ65歳で開業したか」についてご披露することから始めようと思います。よろしくお願い致します。

「私はなぜ65歳で開業したか」

  1. 1.「さわやまクリニック」の開業に至った思い
    • (1)実行に移す前の段階で[1]
    • (2)実行に移す前の問題点とその解決策[2]
  2. 2.クリニック開業後の取り組み
    • (3)実行に移した後の段階で[3]
    • (4)実行に移した後の問題点とその解決策[4]
  3. 3.クリニックの将来像
1.「さわやまクリニック」の開業に至った思い

(1)実行に移す前の段階で

1.座右の銘を更に続行したいから

―私の「座右の銘」はMy Patient is My teacher「患者が先生、患者から学ぶ」である。「学ぶ」とい教科書や教師からが通例出あるが、教科書は出版までに年月をへているし、学びに適さないと思われる教師もいるそうだ。ところが医者は一生が勉強であり、定年が無いから学び続ける必要がある。従って「患者から学ぶ」ことは生涯可能である。

2.定年後だからこそ、やれる

―定年後はやはり自立したい。小規模でも良いから自分の城を築いて仕事をしたいという気持ちが以前から根づいていた。しかし診療所を開業することを思い至ったのは最近のことである。それまで30年にわたってあたためてきた素晴らしい環境の300坪の空き地をどう利用しようか、具体的な構想は纏まらなかった。音楽会場もいいし、レストランも・・・ところが定年に近づくにつれてやはりそこで医療を続ける意向が強くなってきた。3年前のある日のこと、「クリニックを開設しよう。それも循環器科として予約制でゆたりと、それに新時代を担うホリスティック(全人)医療も含めて」と一人つぶやいたのである。「何とかやれそうだ」。

3.立地条件が整っているから―

「池と森林と静寂」という環境は必ずしも診療所の好条件とはならないが、私の場合はホリスティック医療も合わせ行いたいため「癒し」という意味では条件に叶うと思われた。しかも大病院では、診療の場が「静寂には程遠いい」環境にあることを私も大いに体験してきたからである。ただし、この条件にはいかに述べるように、逆効果にも見舞われる結果になりはしないかとの懸念もあった。

4.勤務医では不可能な医療を実地医家としてやりたい―

一般にはこの年齢まで勤務医を続けると、一生勤務医で終始することになるであろう。この年齢であえて開業を始める必要もないからである。しかし私には複数の考えがあって勤務医では不可能な医療を実地医家としてやろうという結論に達したのである。それには、自費診療や予約診療も考えられる。だがこれでは採算を度外視しなくては目的が達成されないであろう。採算の件は後述することにしよう。

5.患者とのスキンシップをより大切にしたいから―

私は以前から大学で診療する際にも「手当て」に相当する視診・触診・聴診といった患者とのコミュニケーションを大切にする手法が得意であった。言い換えればハイテク機器を用いるような、あるいは患者が苦痛を伴うような手法は不似合いであった。それらの手技はむしろ助教授以下のスタッフに委ねてきたのである。それでもなお大病院での診療には不満を感じていたので、更に綿密で患者が一層納得するような医療をやりたいと願っていた。

患者を待たせない診療をやりたい―

我が国では大病院ほど「3時間待って3分間診療」という汚名を着せられている。私も大学の外来では予約制を敷いていたが、紹介患者や急変患者が予約外来に混入してきていた。これは避けられない状況であった。内科循環器部門の開設当初は時間予約制も考えてはみたが、このような事情で実施には至らなかった。しかしこの問題をぜひとも解決したい。開業すると少人数であれば時間予約制で診療することも可能と思われた。

7.新時代指向の医療がやりたい―

新時代指向の医療とは。それは自然療法も現代医療と同様保険診療が可能で、両者が同じ屋根の下で行われ、さらに患者が時に応じて両者を選択でき、しかも個々の患者に十分な時間的空間的余裕を持ってもらい、また患者とのコミュニケーションを蜜にした診療、と言えよう。このような診療は一朝一夕には無理としても、思考や形式だけでもこのように仕向けてゆこうと思った。

8.「プラス思考」の考えだから―

私は従来から物事をできるだけ楽観的に処理しようとしてきたのである。この考えであれば今回の開業も成就されるのではなかろうか。

9.従来から幸運にも恵まれていたから

私は昭和36年、本学大学院の2年目に東大第二内科に留学が可能となったのを皮切りに、昭和42年には米国のエール大学心臓内科にクリニカルフェローシップの認可が得られたのである。更に昭和45年、新設の川崎医大大学長から「内科循環器部門を担当してもらいたいのだが」と打診があった。このように再三にわたるタイミングの良さが幸運にも繋がったと思う。このことが今回の試みに拍車をかけたといえよう。

10.妻が比較的若くて元気だから

妻とは10歳以上の年齢差がある。しかも彼女は一日として家事を休んだ覚えもなく病床に伏した記憶もない。さらに妻は私が苦手とする経営面(とはいっても毎年の青色申告や「自宅大蔵省」程度であるが)にも長けている。このことは妻が「内助の功」を発揮してくれるとすればかけがえのないパートナーと思われた。

11.30年前から購入していた土地がある

もし300坪の土地を購入することから始めるとなるとこの開業はなされていなかったであろう。幸いにも、土地だけは私が30年前米国から帰国直後川崎医大に赴任した際に安価で購入しておいたのである。しかしその利用はあくまでも宅地用としてのものであった。幸か不幸か私は子宝に恵まれなかったから、この土地に自宅を建築しないままマンション暮らしをし続けたのである。その後のこの土地利用については前述の通りである。

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